滋賀学園と日本ヒューレット・パッカードが共同して取り組んでいる「21世紀型教育モデル授業」のCMと紹介動画が、HPのYouTubeチャンネルにアップされました。
ご覧いただき、ご意見を頂戴できれば幸いです。
もちろん、ご質問などがございましたら、遠慮なくお問い合わせください。
☆30秒TVCM
☆授業担当者が語る「効果的タブレット導入篇」
☆校長が語る「アクティブ・ラーニング授業紹介篇」
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☆授業担当者が語る「効果的タブレット導入篇」
☆校長が語る「アクティブ・ラーニング授業紹介篇」
学校の中で好きな風景の一つ・・・
玄関ともいえる前庭正面に建つ1号棟(写真右)と、食堂やICT教室のある4号棟(写真左)の間をグラウンド側から見上げると、校舎をはさむようにして、真ん中に高く空が抜けています。
毎日、校舎間を行き来するたびに、何回となく見上げる光景です。
この時期に出会う、高く透き通った「夏の青空」。その力強さに、今朝も「よし、がんばろう!」って元気をもらいました。
☆☆
いろんなところで何回となく言っていることですが、「学校は《最先端》であるべきだ」というのが、僕の持論です。
今から40数年以上も前のことになりますが、私が小学生だった頃、滋賀県の片田舎では、家にないものが学校にはたくさんありました。
大阪で万国博覧会が開かれたのが1970年、ちょうど小学校5年生の時でした。小学校の理科室には、SONY製のオープンリール・ビデオデッキが鎮座していました。オレンジ色があしらわれた筐体がなんとも格好良く、モノクロの映像教材を先生が再生してくれる時間がとても楽しみでした。
「さすが、学校ってところはすごいなぁ~」。それだけで、学校の存在意義というか、偉大さや権威が感じられました。
ところが、今はどうでしょう。
技術革新が進み、いろいろな商品の価格が下がり、最先端の機器が家庭でも簡単に手に入るようになりました。むしろ、個人(家)の方が学校より一歩も二歩も先に行っていて、パソコンやビデオ、デジタルカメラなど、「学校で使う機器よりも、家にある方が新しくて高機能だ」という現象が、一部の学校を除いて、むしろ当たり前になってきています。
加えて、校舎などのハード面・・・洗面所やトイレ、建物の照明・空調など、地域や公私の別などで大きく違いますが、学校以外のところの方が「きれい」で「快適」な空間だという部分はたくさんあります。
さらには、こういったハードに限らず、ソフト面というか、物事の考え方や体制みたいなものまでが、世間から見れば「学校は遅れている」と言わんばかりの論調が賑やかで、何かにつけ、そういった「社会とのズレ」が世間に語られ、印象づけられているようにも思います。
もちろん、崇高な教育理念の下、いくら校舎がボロボロで、設備や環境が整っていなくても、立派な教育はできると思います。しかし、それは極めて限定的な条件の学校であって、ここまで物質的な豊かさや便利さを味わってしまった今、その学校の存在価値がきちんと認知されていなければ、なかなかそういう意識には至りません。
貧しい生活の中、苦学して云々・・・という時代を否定してはいません。教育には、そういった「精神的な部分」が絶対に必要だとは思います。
しかし、もっと教育に「ココロ(heart)」と「モノ(hard)」をかけて、学校というところが良い意味で「羨望の対象」となるような、《最先端》の環境をつくっていく責任が、我々にはあると思っています。
決して、「楽(らく)」をするとか、「手を抜く」とか、そういった意味の《最先端》ではありません。学び手のココロに訴えかけるような、感性を呼び起こさせるような、さらに知識を吸収して、自分を高めたくなるような・・・そんな誘いを与えてくれるような《最先端》の学びのシステムや空間デザインが、学校には必要です。
もちろん、それにはお金が要ります。でも、お金をかけて整備すればいいと言うことではありません。
お金=モノ以上に大切な「想い」が、そこには絶対に必要です。
幸い、人の縁を活かし、知恵を絞り、自ら一歩を歩み出せば手に届く《最先端》が、いろいろなところに芽吹きはじめました。そのおかげで、お金ありきの議論から、少し違った視点で物事が見えるようになりました。そして、それが実を結び、今年度、いくつかの新しい学びの場を創り出すことができました。
ありがたいことだと、感謝しています。
また、一方で学校が《最先端》であることは、学びが「人が生きることと一体化している」ことを意味します。
学校で学ぶことが、単なる入試を突破するためだけといった、狭くて特殊なものに終始するならば、そこに意欲や価値を見出すのは極めて困難です。かつての高度経済成長期ならいざ知らず、リアルな生活感に根ざした、生きることに連動した「ホンモノの学び」でないと、もはや通用しません。
それを一番よく知っているのは、学びの主人公である子どもたちです。
今こそ、学校の門を広く開け放ち、社会や日々の暮らしに溶け込んだ、たくましく生きるための「知恵と力と勇気」を育んでいける場を、単なる教科書や受験という狭い範疇で縛ることなく、もっと夢のあるワクワク感を語りながら創っていきたいと考えています。
負けはしましたが、最後まであきらめない粘りの野球は素晴らしかった。今までの滋賀学園を一歩前進させるような期待感とともに、多くの爽やかな感動を与えてくれました。
ありがとう!
6回の、滋賀学園のちょっとした守備の乱れを突いてくる北大津の攻撃で失った4点の重さ。2点でとどまっていたらと思うのは、あくまでも結果論。
しかし最終回、9回裏の2点は、失った4点以上に意味のある「あきらめない姿勢」そのものでした。
勝利の女神は相手に微笑みましたが、スタンドから注がれた大観衆の眼差しと声援は、最後に「ありがとう!」のコトバとともに、選手たちの肩を叩いてくれました。
よくやったね!
感動したよ!
悔しさではなく、新たな始まりの予感。
あきらかに、滋賀学園の野球は一皮むけた。新たなステージに進んだと言っていいと思います。
高校生の部活動という範疇をはるかに超え、一方で商業ベースに乗っていると揶揄される高校野球。それぞれの立場で、その功罪が語られ、選手たちのキモチ以上に外野がうるさくなることも少なくありません。
そんな中で、自分たちのプレーや仲間との絆を信じ、純粋に頑張る姿を見せてくれた滋賀学園の選手たち。
お疲れさま!
昨日、今日と続いた試合は、多くの野球ファンはもちろんのこと、本校生徒や保護者、卒業生の心に、大きな夢と希望を届けてくれました。
明日からまた、滋賀学園野球部の新たな一歩が始まります。
最後まで見守ってくださった皆さん、ほんとうにありがとう!
そして、これからもよろしくお願いします!
高校球児の夏、聖地・甲子園をめざし、熱い闘いが各地で続いています。
本校も今日、台風の影響で1日順延になった2回戦・北大津高校との対戦を迎えました。
どちらに勝利の女神が微笑むか・・・。気がつけば延長15回、引き分け再試合となるハラハラドキドキの3時間半。
初回に先制したものの、その後は北大津が先行し、滋賀学園が追いつくという展開が5回、9回、15回と続きました。
同点から勝ち越しへ、そのままの流れで一気にサヨナラという場面がすぐ目の前にきているにもかかわらず、その壁が越えられません。
さすが、相手はシード校。そう簡単に崩れるわけがありません。多少のミスがあるものの、キッチリまとめてきます。好守備を見せてくれるショート、ここぞという時のファインプレーに会場がどよめきます。
でも、本校も全然負ける気がしませんでした。むしろ、最後まで勝てるというキモチの方が強かったかもしれません。
これまでの試合でウィークポイントとも言われていた、精神力の弱さ。それが、今日は違いました。ミスが出て、相手に先行されても、そのまま終わるような「弱さ」が表に出ません。2アウトからでも打線をつなぎ、1点をもぎ取る「気迫と執念」がありました。
スタンドの応援も、野球部とチアリーディング部にとどまらず、吹奏楽部がより一体感を持つ形にバージョンアップ。さらに、サッカー部やラグビー部、バレー部はじめ、在校生やOB、保護者などが顔を見せてくれるのも、本校の魅力のひとつです。
どちらにもチャンスとピンチがあった、今日の対戦。ただ、両校のキモチとプレーが拮抗し、女神が最終決断をくだせなかったようです。
今日の試合を振り返り、改めて「勝負の分かれめ」を思い知らされたような気がしました。
一夜明けて明日、同じ時間から、同じ会場で仕切り直し。
しっかり休養して、今日の流れをさらに大きくつないでいけるような、気合いの入ったプレーを女神に見せてほしいと思います。
がっちり勝利をつかみ取る瞬間を、スタンドで共有しましょう!
昨夜から読み始めた、石倉洋子先生の新著『世界で活躍する人が大切にしている小さな心がけ』(日経BP社)。
完璧を目指さない、時には鈍感になる、仕事は楽にする・・・。今日から、誰でもすぐできる、とっておきのノウハウが「28の小さな心がけ」にまとめられています。
とはいえ、単なるハウツー本ではなく、石倉先生がご自身の幅広い経験をもとに、そこで得た見方・考え方を丁寧に語ってくださっていて、まるで自分が同じ体験をしているかのような感覚で学ぶことができます。
キーワードは、「気軽に」「試してみる」「実践する」「続ける」。
つまり、reactive(受け身)ではなく、つねにproactive(自ら率先して行動する)という、「行動のすすめ」。
なるほど、そのとおり!
すぐにでも実践してみたくなります。
ぜひ、生徒も含め、多くの人に読んでほしい一冊なのですが、その背中を押す意味で、本の冒頭<はじめに>から、いくつかのキー・センテンスを紹介しておきます。
☆☆☆
刻々と変わる世界で「時代遅れ」にならないために
まず、5年先、10年先がどのような時代になるかを考えるために、10年前つまり2005年はどんな時代だったのかを振り返ります・・・
iPhoneは登場しておらず、フェイスブックは米国東海岸でスタートしたばかり。ツイッターやLINEはまだ生まれていませんでした。誰もが「今なにしてる?」に答えて、今いるところ、今一緒にいる人、今やっていることを友人や世界に知らせる、という状況が日本でも当たり前になるとは、想像すらできなかったのではないでしょうか。(P1)
そして今や、遠い世界だった、さまざまな国々の出来事がYouTubeやSNSで見聞きでき、誰でもその気になれば、いろいろなことにアクセスし、知識を得、経験できるチャンスが目の前に広がっている時代になりました。
さあ、その一歩を踏み出そう!
その前に・・・
今や時代遅れ? 新しい時代の足かせとなる4つのアプローチ
これからの時代は、何が今までと違い、どんな発想が必要なのかを押さえておかなければなりません。
これまで重要と思われてきた考え方、アプローチで今や時代遅れになりつつあると私が思うのは、次の4つです。
①既存のフレームワークを用いて世界を整理すること。
②過去のデータを分析して正しい答えを探すこと、よく考えて答えを見つけてから行動に移すこと。
③まず日本という身近な場で考えて、それから世界を目指すこと。
④日本で通用する基準があり、それに従って自分の力やポジションが評価・判断されるという考え方。よほど才能がある人や地位が高い人などでないかぎり、普通の個人にはあまり力がない、という考え方。(P4)
いやぁ〜、スッキリします。私自身、同じことを強く感じています。
これだけでは十分納得できないという人は、実際、本に書かれている具体的な説明を読んでいただければわかると思います。
で、私たちはどうしたらいいのか・・・
自分の市場価値を常に見きわめ、身近なところから始める
石倉先生は、こうおっしゃっています。
私は、「これまでの枠組みにとらわれないで自分で考えること」、「世界の変化を見ながら、自分の市場価値・ユニークさを常に見きわめ、磨き、それを表明すること」、そして「世界の可能性を取り込むために、少なくとも当面は、英語ができること」を提案します。(P6-7)
加えて、こうした活動を大仰な目標にして1年に1度行うというのではなく、
毎日身近なところからすぐ始めてみる、一時的にできなくてもあきらめずに続けて習慣にすることをおすすめします。(P7)
そうそう、よくわかります!
☆☆☆
と、まあこんな具合に、冒頭から元気モリモリになるような、力強いメッセージが続きます。
「どうせ無理」と言いそうになったら、「だったらこうしてみよう」と考える。お互いに、「できない理由」を探すのではなく、「できる方法」を見つけ出していくことを実践していこうとする私たちにとって、最高のバイブルとなる一冊です。
ぜひ手にとってほしいと思います!
学校というところは、予期せぬ対応や急な仕事が次々と入ってくることが多く、先生たちは時間のやりくりに苦労するのが日課だ。
まあ、相手が生きた人間であるがゆえに、予定通り物事が進むような現場ではない。
プリントづくりをしようとパソコンに向かった途端、やれ「鼻血が出た」と職員室に飛び込んでくる生徒がいたり、「あのぉ~」と(たいていどうでもいいことなんだけど)駆け込んでくる生徒がいたり・・・。
そのたびに仕事が中断され、どんどん後回しになっていく。
そうこうしているうちに空き時間が終わり、やおら授業が続くと、あっという間に一日が終わってしまい、「これもできなかった」「あれも残っている」と、放課後、それらを処理するハメになる。
一日の流れがこんな状態だから、一週間、一か月スパンで考えたら、それこそ予定があってないようなもの、・・・というより「予定が立たない」。
だから「行き当たりばったり」「テキトーに」というわけにはいかなくて、何が起こっても「幅広いココロで柔軟に対応できる」「しなやかな臨機応変さ」が必要になってくる。
教師たる者、予期せぬ出来事に出会ったとき、どんな対処をするか・・・すべてはそれで決まるといってもよい。
だから、いつも真剣勝負!
そんなの予定にないからと、「できない理由」を並べ立てて我が身に振りかからぬようにするか、「これも何かの縁」だと引き受け、やることで得られるものを探すか、その差は大きい。
「できない理由」を探し、自分を正当化しようとするようでは、指導者とはいえない。
困難は、乗り越えるためにあるってことを、身をもって具現化せよ!
教育改革なんていうコトバがあちこちで見聞きされるようになって、それなりの時間が経過しています。にもかかわらず、トピック的な事例はあるにせよ、大きな体制的変革として具体的な動きは見えてきません。
それに異を唱えるかのように、このところ、学校など「教育」を取り巻く状況が、関係者だけでなく一般市民の声として、急速かつ大きく変化してきていることを強く感じます。
私自身、企業や行政、地域、NPOなど、さまざまな団体の方々とお話しさせていただく機会がけっこうあります、また、大学生はじめ、つい最近まで初等中等教育を受ける立場だった若者との意見交換も、日常的にさせていただいています。
そんな中で、そういった「教育」を取り巻く危機的状況を叫ぶ声が、顕在化してきました。
どう考えても、このままでは無理・・・。
構造的、システム的に限界を超え、その機能を十分に発揮できるどころか、むしろ阻害するような状況に陥っている・・・。
そんな違和感が大きな危機感となって、警告を発しています。
ところが、まだまだ現状維持を最優先に、旧態然としたカタチが続くと思っている関係者が多いのも事実です。気づいているのか、いないのか、そんなことはどこ吹く風・・・。現状から学び、自分を変えようという意識がほとんど見受けられません。
文部科学省はじめ国を挙げて、高度経済成長期にスタンダードであった「教育」は、ハード、ソフトともに大胆に見直し、改善していかなければならない、と言っているにも関わらず・・・です。
ITを筆頭とした教育環境の大きな進化で、今まで人間が行っていた業務をコンピュータが肩代わりする場面が日常化し、その広がりが仕事の概念を大きく変えつつある今、子どもたちを育てる立場にある教師が、そんな「現状維持」状態で職務を全うできるわけがありません。
新しい環境に身を置き、貪欲に学び、人間としての資質を高め、自己革新を図れないのであれば、もはや「退場」を余儀なくされても仕方がない・・・。
だって、従来のままでは、子どもたちに必要なチカラを育てきれないから・・・。
そういった意識をどこまで自分事として考えられるかが、大きな分かれ道です。
幸い、本校にはそれに気づいている仲間がたくさんいます。
2020年、2030年・・・。節目となる時期まで、どれだけ時間的余裕があるでしょう。強い危機感を持ち、学校を変えていかなければならないと思っています。
新しいWEBサイト、気に入っていただけましたか?
イメージ作りから公開までの作業は、コストパフォーマンスを意識しつつ、さまざまな制約がある中で、どこまで思いを伝えきれるかが大きなテーマ。検討メンバーが意見をぶつけ合いながら創り上げていく過程は、まさにPBL授業のグループワークモデルそのもの。たくさんの学びが、そこにありました。
ご覧いただいたご感想、あるいはご意見等、幅広くお聞かせいただければ幸いです。
さて、明日の学校紹介(ミニプレゼン)に向けて、イントロメッセージで使うkeynoteスライドを、夜遅くから作り始めました。
ふだんの授業風景も入れたいなぁ・・・
入れるんだったら、断然、動画にすべきやろぉ・・・
そんなことを考えながら、動画を入れたところまでをムービーにしてみました。
何も説明は加えていませんが、学校のイメージが伝わると思いますので、先行お披露目させていただきます。
(後半の動画部分のみ音声がついています。音量にご注意ください。)