今日は中学・高等学校の両方で、第1回のオープンスクールを開催させていただきました。
いずれも昨年を上回る参加者をお迎えでき、児童・生徒はもちろん、保護者の皆さんの真剣な眼差しに、身の引き締まる思いがしました。ご期待を裏切ることのないよう、日々精進、改善、努力を続けて参りたいと思います。
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さて、こういったご縁をいただくたびに、直前まで私が考えていることは、「未来を担う子どもたちや保護者に、いま、何を語りかけるか」ということです。
今日、私の話を直接お聞きいただいた皆さんに対し、本来であれば、そのベースになる「私自身の歩み」からお話しさせていただくべきだったのですが、時間の関係もあり、最近のトピックにウェイトを置き、紹介させていただきました。
なので、この場をお借りして、滋賀学園とのご縁をいただくまでの私自身について、少し補足しておきたいと思います。
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自分にとって「先生」と呼べる人・・・。なにも学校の先生に限ったことじゃありませんが、その人から大きな影響を受け、生き方や考え方、職業選択、あるいはその後の人生までもが大きく変わってしまうことがあります。
私が、教師という職業に就こうと思ったこと。それは、小学校1・2年の担任だった藤原先生の影響がイチバンです。もちろん、まだ小学生になったばかりの頃でしたから、その当時の私に、自分の将来についての具体的な考えなどあるはずがありません。でも、藤原先生から感じた「教える」ということに対する情熱、それは「思いやり」に満ちた「やさしさ」が基本なんだということ・・・。
当時、幼心に実感として伝わってきた、藤原先生の心のこもった真摯な態度は、その後、私自身が教師への道を選ぶ大きなキッカケになったように思います。今でも、子どもと接するときの藤原先生のキラキラと輝いた、楽しそうな顔を思い出します。
次に、本を読むことが好きで、文章を書くことが苦にならないこと。これは、中学校の国語の先生が大きく影響しています。中野先生というこれまたオバサマ先生でしたが、単に教科書の内容を説明したり、語句の解釈をするだけではなく、何とも言えない語り口調で、物語のすばらしさ、自分の気持ちや思いを文章にする楽しさ、そういったことを繰り返し教えてもらいました。
そして、「どんな勉強も”国語”が基本」「文章が理解できない、漢字が満足に書けないようでは、自分が困る」「毎日使う日本語がしっかり読み書きできずに、どうするの」「生きていく上で”国語力”が影響する部分ってすごく大きいんだから」・・・なんてことを、何度も何度も、毎日の授業の中で聞かされました。
さらに、これらの先生以外にも、理科が好きになるキッカケをつくってくれた村井先生。英語が嫌いになる原因(とはいっても、自分の勉強不足が一番大きいのですが)になった英文法の先生など、中学から高校、大学にかけて、本当にたくさんの先生に影響されつつ、今の自分があります。
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いよいよ就職が目の前にやってきた大学4年生の時、希望する私学教員(公立教員になるつもりは、最初からなかった)の道に恵まれず、趣味の延長線上で某印刷会社のデザイン職に就くことを決めました。
年が明け、偶然にも理科の前任者が退職したというのことで、声をかけてくださった滋賀県内の私立高校で働けることになり、思いがけず舞い降りてきた教壇デビュー。
以後、20年・・・。山あり谷ありの毎日でしたが、それなりに楽しく、やりたいことを提案し、それを受け容れてもらいながら、前向きに過ごしていました。良き先輩や同僚にも恵まれ、自分が成長していくのが実感できる毎日でした。
そこに降ってわいた、地元でラジオ局を作るという話。
42歳。3人の子どもを抱え、家族もあり、よく考えれば無謀とも言える決断でしたが、何もないところから創り上げる魅力に惹かれ、飛び込みました。
何がそうさせたのかわかりませんが、ここで思い切らなければ、きっと後悔する・・・。そんな気持ちが、学校を辞め、新しい仕事に挑戦するという決断をさせてくれたように思います。
そして、ラジオ局の立ち上げに取りかかり、数多くの困難を乗り越えながら、なんとか開局までこぎ着けました。滋賀県初と評され、その世界では一応、それなりの脚光を浴び、新聞にも大きく取り上げていただきました。
ところが、収入面や生活の実態はボロボロ。昼夜のサイクルが狂い、カレンダーとは無縁の勤務で、表向きの世界と現実の強烈なギャップ。というより、これでは家族が生きていけない状況に陥りました。
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泣く泣く、その世界から退き、パソコンの設定業務やウィルス除去、ソフトウェアの操作指導などを戸別に訪問する仕事を、個人事業としてやり始めました。業界では「オンサイトサポート」とよばれている仕事で、製品購入者に対して行われるアフターサービスの1つ、出張設定・修理サービスをさします。
Yahoo!BBやeo、NTTなどにインターネット接続回線を申し込むと、無料でセッアップサービスがついてきたり、パソコンを買った際、ウィルスに感染しても一定期間なら無料で除去してもらえる、あるいはジャパネットたかたでPCを買うと、接続からインターネット設定までついてくる・・・、そういったサービスです。
本来は、大手PCメーカー、家電量販店、インターネットプロバイダーなどが、自前でそういうスタッフを抱えるところですが、それではあまりにも効率が悪いので、そういった仕事を取りまとめて紹介してくれる会社がつくられています。そして、そこと契約して、仕事をしている人がいるというわけです。
各企業の社員ではありませんが、仕事をもらった先の名前で顧客に対応するわけで、かなり厳しい制約があり、接客マナーはもちろん、一定の技術レベルも要求され、定期的に審査などもありました。
当時の私は大阪にある2社と契約し、一日平均、個人宅なら午前に1件、午後に2件、夕方(夜)に1件の計4件のお宅を訪問し、仕事をしていました。エリアは、基本的に滋賀県内一円で、ときに岐阜や福井、京都などにも車を走らせていました。
WEB上にまとめられている依頼情報の中から、自分の行きやすいお客さんを探し、仕事を獲得していきます。その後、お客さんに電話して自分でアポを取り、訪問の時間調整をし、自家用車で回ります。作業内容もインターネット接続設定、トラブル診断・修復サービス、操作指導など多岐にわたり、クライアント企業によって、その作業範囲も料金も、報告書も微妙に違います。
同じような仕事をしている人(多くは、いわゆるSOHOなどの個人事業者です)が滋賀県内に数人いて、誰もが、簡単でやりやすく、報酬の高い仕事を競って取り合うわけで、毎日、PCとにらめっこしながら仕事を探し、訪問していました。
仕事がなければ収入はゼロ。いかに近場で、効率よく訪問できるところを探し、一筆書きのように現場を回って、スムーズに仕事を切り上げるか。すべてはそれにかかっていました。
いくら簡単な接続設定といえど、朝イチに湖北、昼に大津、そのあと彦根で、夜は草津・・・なんていう回り方では無駄が多いわけで、近くのお客さんを、いかに同じ日に組み合わせるか。当然、お客さんの希望日時が最優先ですから、そこはアポ取りがうまくならないと、どうしようもありません。
また、お客さんの目の前で、初めてふれる顧客のパソコンを操作し、その視線を浴びつつ作業をしなければならないという緊張感が、常につきまといます。もちろん「できません」「わかりません」とは口が裂けても言えません。こんなことぐらい簡単さ・・・というノリで、ささっと手際よくこなし、ついでにプラスアルファの操作説明なんかできたら、相手は大感激! ぜひまた今度もアナタに・・・ということで、好感度アップってことの繰り返しです。
仕事が終わると、そこで料金をいただく場合もあり、作業内容に納得してもらえないと、気分よく払ってもらえません。「え~、こんなに高いの?」なんて言われたら最悪です。
当然、こういったサービスにはつきものの「お客様アンケート」もあるわけで、満足度が高いスタッフには報酬の高い仕事、VIPなお客さんを優先的に回してもらえることになります。そんなスタッフには、急遽「今日、近場でもう一つこの仕事をやってくれない」と本社サイドから依頼があったりして、単価3000~4000円の仕事であっても、数が増えれば大きな収入になったりします。
年末年始など企業が連続休暇になるときなど、大手企業の本社や支社での仕事もありました。いわゆる法人のお客さまで、サーバ設置・メンテナンス、キッティング、POS端末展開なども、それはそれでなかなか面白く、得がたい経験となりました。ふだんは入れない超大手企業の裏側?を見られることもありました。
とにかく、その道のプロとして、お客様の目の前で仕事を完結し、その対価として報酬をもらう。仕事を回してくれた会社、そこと契約している企業が常について回り、両方に気に入ってもらわなければ、たちまち仕事がなくなる・・・。
挨拶、身なり(もちろんスーツにネクタイ。パソコンの裏側ってホコリだらけの家って多いので、靴下もすぐに汚れます。一日数足履き替えたこともありました)、言葉遣い、笑顔、スキル・・・など、アポ取りの電話から始まり、報告書を提出するまで、見かけ以上に「気を遣う」仕事でした。
その場で、お客さんの表情・反応がダイレクトにわかるので、自分の仕事がうまくいっているか、気に入られているか・・・などがリアルに伝わってきて、まさに「真剣勝負」。それも、自分の会社じゃなく、相手の家が仕事場なので、当然こちらは「よそ者」。相手の土俵で、相手の要求することを100%叶え、プラスアルファの作業をつけて、相手に返す。そして、満足をしてもらわなければならなりません。
どんな仕事にも通じる、「対人関係の基本」がそこにはありました。
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そんな時、あるところから声がかかり、経験を活かしてもう1つラジオ局を作ってくれないかとの依頼が舞い込みました。満足のいくところまでラジオの仕事ができていなかったこともあって、二つ返事で引き受け、しばらくはパソコンの仕事と両立させながら、何とか県内に2つ目のラジオ局を開局しました。
そしてある日、滋賀学園との「ご縁」が、このラジオから生まれました。
自分の番組のゲストコーナーに、当時の滋賀学園中高の副校長先生と中学の教頭先生が、中高一貫校のすばらしさを紹介しに来てくださったのです。
ご縁をいただき、今年で10年目を迎えた滋賀学園生活・・・
ある意味、私にとっても人生の集大成となるような仕事が、そこには待っていました。
(次回に続く・・・)