カテゴリー別アーカイブ: 学校デザイン

私学が提供すべき「価値は」何か・・・


thumb_IMG_8440_1024中高の期末考査初日、12月2日(水)の午後、コアネット教育総合研究所の清水葉子さん(神戸研究室・プロジェクトリーダー)を講師に招き、教員研修を行いました。

11月18日(水)の職員会議で、20年後の社会がどうなっているかについて「労働人口の減少」「インターネットのさらなる発達」「コンピューターに仕事を奪われる」の切り口でデータ分析を加えた資料を配付し、あらかじめ先生方に考えておいてもらったうえで集まったこの日。

thumb_IMG_8449_1024学年や分掌が異なる5人ごとのグループを作り、「ストーリーのある学校づくり」をテーマに、 シナリオ・プランニングの手法を用いて滋賀学園の未来を考えていきました。

あるアンケートでは、これからの社会では安定した収入を得ることが今よりも難しくなると思う保護者が9割近くに達しています。そして、保護者はICTを活用した参加型授業の効果を肯定的にとらえ、留学や英語力に対する要望も高く、主体性やコミュニケーション力の育成を学校に期待しています。

そのような中、私学が提供すべき「価値は」何か・・・。
thumb_IMG_8482_1024ワイワイ・ガヤガヤ、笑顔と真剣な表情が交錯する積極的な意見交換&アイディア出し。

途中、息切れするのでは・・・という心配がなかったわけではありませんが、さすが、先生たちのパワーは留まるところを知りません。後半になるにつれヒートアップしていきました。

3時間を超えるレクチャーとワークから見えてきた、たくさんのヒント。

今後に向けて新しい一歩が踏み出せるような予感に応えるべく、プロジェクトチームを作り、できるところから実践に移していきたいと考えています。

既存の「学校」システムは、どう考えても破綻している・・・

いろいろな方とお話しさせていただく中で、学校のあり方というか、将来の学校像について語ることが少なくありません。

私の基本姿勢は、「開かれた学校であること」。

言い換えれば、「学びの対象(生徒)と場所はこちら(学校側)が用意するので、どんどん教えに来てください」ということになるでしょうか。

あらかじめ用意された「与えられる学び」ではなく、自己責任において「自ら創り出す学び」への転換と言ってもいいかもしれません。

先日、Facebookにこんなことを綴りました。

教科の学習や生徒会、クラブ活動、地域活動など、生徒の学びを全て「project」として捉え、クラスや授業などの固定化された枠組みではなく、その時々で「何をしたいか」によって柔軟な集団(チーム)をつくり、お互いに学び合っていくようなスタイルの学校が創れたらいいな。

先生は固定化された指導者ではなく、ファシリテーターとして project に加わり、学びをデザインしていく役割を担う。もちろん、学校内部の人財だけでは足りないので、積極的に外部リソースとつながり、project に相応しい人財を just in time でチームに迎える。

1つの project が当初の目的を達成すれば、そのチームは解体し、新たな学び(やりたいこと)で新たなチームをつくっていく。

そうやって、必要な時間や空間を自由にアレンジしながら、ダイナミックに進めていける project 単位の real life な学び。

どう、ワクワクしない?

既存の「学校」という枠組みが、近代工業化時代に最適化されたカタチである以上、すでに過去のもの(私は、敢えてそのシステムが「破綻している」と言っていますが)になっているにもかかわらず、それを冷静に捉え、改善していく流れがどうも日和見になっているような気がしてなりません。

このまま、どこまで旧態依然としたカタチを踏襲していこうとするのか・・・

本校はいち早くその流れから脱し、学びの主体である子どもたちのために、必要な改革を進めていくことを、昨年の創立記念式典で宣言しました。

滋賀こそ、「私学」が教育をリードせよ!

総人口に占める年少人口(0~14歳)の割合が12.8%と過去最低を記録するなか、滋賀県は14.6%と全国第2位。第1位は、沖縄県で17.5%。第3位以下は、佐賀県14.2%、愛知県14.0%、宮崎県13.8%と続いています。<2015年4月17日:総務省発表「人口推計」>

この数字を見ただけでも、滋賀県において新しい時代に対応した教育環境の整備が急務であることは明らかであり、全国の先陣を切って教育改革を推し進めていかなければなりません。

ところが、その穏やかで控えめな県民性が変革を拒むのか、どうも旧態然とした「前年度踏襲型施策」が幅を利かし、私学を取り巻く教育行政ひとつとっても、近隣他府県のような大胆な改革論議(良い悪いは別にして)すら出てきません。

学校教育において圧倒的に「公立優位」の滋賀県では、その数のみならず県民意識として「私立」の立場が弱いと言わざるを得ません。従って、行政側の論調も「私立は(補助金等に頼るのではなく)自分たちの力で学校の魅力を高め、生徒を確保し、経営していくべきだ」との意見が根強く、同じ「公教育の場」でありながら、入試や財政支出等について公立中心に物事が進められているような気がします。

昔のように、ある意味「先が見える」時代であれば、規模の大きい、安定した組織がチカラを発揮したでしょうが、今や「明日をも知れない」時代です。何が起こってもおかしくはないし、昨日まで隆盛を誇っていた大企業が一夜にして倒産することだっていくらでもあります。また、科学技術の進歩に利便さを求める一方、いかに自然と共存していくかを考えることも、待ったなしの状況になっていることは言うまでもありません。

そんな今、かつて聖域と呼ばれた時代を引きずるかのような、「おらが組織を守らんがための考え方」が行政や教育現場に残っているとすれば、それは大きなマイナスであり、障壁でしかありません。

大きな組織だと動かすのも大変です。意志決定にも時間がかかり、機敏な対応には自ずと限界が出ます。それなら、コンパクトな組織に改め、もっと柔軟に物事を進めていった方がいいと考えるのが自然の流れでしょう。

再編計画が進む県立高校ですが、決定までの紆余曲折や、近隣他府県への進学動向、入試制度等々を考えても、県内全県一区の枠組みの中で、県立だけを視野に入れて「滋賀県の高校教育」を論じるのは、もはや時代遅れも甚だしいと、私は思います。

もちろん、グローバル化やICT導入、産学・地域連携など、公立私立を問わず教育の中身こそ大胆かつ早急に変えていかなければ、その被害を被るのは子どもたち自身です。

幸い、そういった動きは「私立」の方が先行しています。全国的にも、一般に私立の良さを公立が後追いするといった形で改革が進んでいます。

ただ、滋賀県はまだまだ遅い・・・

子どもを持つ保護者は敏感です。自ら見極め、動いています。保護者や子どもたちに「学ぶに値する環境」かどうか、値踏みされ、相手にされないような判断を下されたら、それこそ存在意義がありません。

すでに滋賀県単独で済む話ではなく、近隣府県との競争というか、良い意味での切磋琢磨が始まっています。

私立は県立を補完するものではないし、双方が魅力を磨きあうからこそ教育の充実発展があります。そのあたりを十分に考えたうえで、滋賀の教育を切り拓いていかなければなりません。

学校が《最先端》であることは、学びが「人が生きることと一体化している」ことを意味します。

110709学校の中で好きな風景の一つ・・・

玄関ともいえる前庭正面に建つ1号棟(写真右)と、食堂やICT教室のある4号棟(写真左)の間をグラウンド側から見上げると、校舎をはさむようにして、真ん中に高く空が抜けています。

毎日、校舎間を行き来するたびに、何回となく見上げる光景です。

この時期に出会う、高く透き通った「夏の青空」。その力強さに、今朝も「よし、がんばろう!」って元気をもらいました。

☆☆

いろんなところで何回となく言っていることですが、「学校は《最先端》であるべきだ」というのが、僕の持論です。

今から40数年以上も前のことになりますが、私が小学生だった頃、滋賀県の片田舎では、家にないものが学校にはたくさんありました。

大阪で万国博覧会が開かれたのが1970年、ちょうど小学校5年生の時でした。小学校の理科室には、SONY製のオープンリール・ビデオデッキが鎮座していました。オレンジ色があしらわれた筐体がなんとも格好良く、モノクロの映像教材を先生が再生してくれる時間がとても楽しみでした。

「さすが、学校ってところはすごいなぁ~」。それだけで、学校の存在意義というか、偉大さや権威が感じられました。

ところが、今はどうでしょう。

技術革新が進み、いろいろな商品の価格が下がり、最先端の機器が家庭でも簡単に手に入るようになりました。むしろ、個人(家)の方が学校より一歩も二歩も先に行っていて、パソコンやビデオ、デジタルカメラなど、「学校で使う機器よりも、家にある方が新しくて高機能だ」という現象が、一部の学校を除いて、むしろ当たり前になってきています。

加えて、校舎などのハード面・・・洗面所やトイレ、建物の照明・空調など、地域や公私の別などで大きく違いますが、学校以外のところの方が「きれい」で「快適」な空間だという部分はたくさんあります。

さらには、こういったハードに限らず、ソフト面というか、物事の考え方や体制みたいなものまでが、世間から見れば「学校は遅れている」と言わんばかりの論調が賑やかで、何かにつけ、そういった「社会とのズレ」が世間に語られ、印象づけられているようにも思います。

もちろん、崇高な教育理念の下、いくら校舎がボロボロで、設備や環境が整っていなくても、立派な教育はできると思います。しかし、それは極めて限定的な条件の学校であって、ここまで物質的な豊かさや便利さを味わってしまった今、その学校の存在価値がきちんと認知されていなければ、なかなかそういう意識には至りません。

貧しい生活の中、苦学して云々・・・という時代を否定してはいません。教育には、そういった「精神的な部分」が絶対に必要だとは思います。

しかし、もっと教育に「ココロ(heart)」と「モノ(hard)」をかけて、学校というところが良い意味で「羨望の対象」となるような、《最先端》の環境をつくっていく責任が、我々にはあると思っています。

決して、「楽(らく)」をするとか、「手を抜く」とか、そういった意味の《最先端》ではありません。学び手のココロに訴えかけるような、感性を呼び起こさせるような、さらに知識を吸収して、自分を高めたくなるような・・・そんな誘いを与えてくれるような《最先端》の学びのシステムや空間デザインが、学校には必要です。

もちろん、それにはお金が要ります。でも、お金をかけて整備すればいいと言うことではありません。

お金=モノ以上に大切な「想い」が、そこには絶対に必要です。

幸い、人の縁を活かし、知恵を絞り、自ら一歩を歩み出せば手に届く《最先端》が、いろいろなところに芽吹きはじめました。そのおかげで、お金ありきの議論から、少し違った視点で物事が見えるようになりました。そして、それが実を結び、今年度、いくつかの新しい学びの場を創り出すことができました。

ありがたいことだと、感謝しています。

また、一方で学校が《最先端》であることは、学びが「人が生きることと一体化している」ことを意味します。

学校で学ぶことが、単なる入試を突破するためだけといった、狭くて特殊なものに終始するならば、そこに意欲や価値を見出すのは極めて困難です。かつての高度経済成長期ならいざ知らず、リアルな生活感に根ざした、生きることに連動した「ホンモノの学び」でないと、もはや通用しません。

それを一番よく知っているのは、学びの主人公である子どもたちです。

今こそ、学校の門を広く開け放ち、社会や日々の暮らしに溶け込んだ、たくましく生きるための「知恵と力と勇気」を育んでいける場を、単なる教科書や受験という狭い範疇で縛ることなく、もっと夢のあるワクワク感を語りながら創っていきたいと考えています。