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滋賀こそ、「私学」が教育をリードせよ!

総人口に占める年少人口(0~14歳)の割合が12.8%と過去最低を記録するなか、滋賀県は14.6%と全国第2位。第1位は、沖縄県で17.5%。第3位以下は、佐賀県14.2%、愛知県14.0%、宮崎県13.8%と続いています。<2015年4月17日:総務省発表「人口推計」>

この数字を見ただけでも、滋賀県において新しい時代に対応した教育環境の整備が急務であることは明らかであり、全国の先陣を切って教育改革を推し進めていかなければなりません。

ところが、その穏やかで控えめな県民性が変革を拒むのか、どうも旧態然とした「前年度踏襲型施策」が幅を利かし、私学を取り巻く教育行政ひとつとっても、近隣他府県のような大胆な改革論議(良い悪いは別にして)すら出てきません。

学校教育において圧倒的に「公立優位」の滋賀県では、その数のみならず県民意識として「私立」の立場が弱いと言わざるを得ません。従って、行政側の論調も「私立は(補助金等に頼るのではなく)自分たちの力で学校の魅力を高め、生徒を確保し、経営していくべきだ」との意見が根強く、同じ「公教育の場」でありながら、入試や財政支出等について公立中心に物事が進められているような気がします。

昔のように、ある意味「先が見える」時代であれば、規模の大きい、安定した組織がチカラを発揮したでしょうが、今や「明日をも知れない」時代です。何が起こってもおかしくはないし、昨日まで隆盛を誇っていた大企業が一夜にして倒産することだっていくらでもあります。また、科学技術の進歩に利便さを求める一方、いかに自然と共存していくかを考えることも、待ったなしの状況になっていることは言うまでもありません。

そんな今、かつて聖域と呼ばれた時代を引きずるかのような、「おらが組織を守らんがための考え方」が行政や教育現場に残っているとすれば、それは大きなマイナスであり、障壁でしかありません。

大きな組織だと動かすのも大変です。意志決定にも時間がかかり、機敏な対応には自ずと限界が出ます。それなら、コンパクトな組織に改め、もっと柔軟に物事を進めていった方がいいと考えるのが自然の流れでしょう。

再編計画が進む県立高校ですが、決定までの紆余曲折や、近隣他府県への進学動向、入試制度等々を考えても、県内全県一区の枠組みの中で、県立だけを視野に入れて「滋賀県の高校教育」を論じるのは、もはや時代遅れも甚だしいと、私は思います。

もちろん、グローバル化やICT導入、産学・地域連携など、公立私立を問わず教育の中身こそ大胆かつ早急に変えていかなければ、その被害を被るのは子どもたち自身です。

幸い、そういった動きは「私立」の方が先行しています。全国的にも、一般に私立の良さを公立が後追いするといった形で改革が進んでいます。

ただ、滋賀県はまだまだ遅い・・・

子どもを持つ保護者は敏感です。自ら見極め、動いています。保護者や子どもたちに「学ぶに値する環境」かどうか、値踏みされ、相手にされないような判断を下されたら、それこそ存在意義がありません。

すでに滋賀県単独で済む話ではなく、近隣府県との競争というか、良い意味での切磋琢磨が始まっています。

私立は県立を補完するものではないし、双方が魅力を磨きあうからこそ教育の充実発展があります。そのあたりを十分に考えたうえで、滋賀の教育を切り拓いていかなければなりません。

学校が《最先端》であることは、学びが「人が生きることと一体化している」ことを意味します。

110709学校の中で好きな風景の一つ・・・

玄関ともいえる前庭正面に建つ1号棟(写真右)と、食堂やICT教室のある4号棟(写真左)の間をグラウンド側から見上げると、校舎をはさむようにして、真ん中に高く空が抜けています。

毎日、校舎間を行き来するたびに、何回となく見上げる光景です。

この時期に出会う、高く透き通った「夏の青空」。その力強さに、今朝も「よし、がんばろう!」って元気をもらいました。

☆☆

いろんなところで何回となく言っていることですが、「学校は《最先端》であるべきだ」というのが、僕の持論です。

今から40数年以上も前のことになりますが、私が小学生だった頃、滋賀県の片田舎では、家にないものが学校にはたくさんありました。

大阪で万国博覧会が開かれたのが1970年、ちょうど小学校5年生の時でした。小学校の理科室には、SONY製のオープンリール・ビデオデッキが鎮座していました。オレンジ色があしらわれた筐体がなんとも格好良く、モノクロの映像教材を先生が再生してくれる時間がとても楽しみでした。

「さすが、学校ってところはすごいなぁ~」。それだけで、学校の存在意義というか、偉大さや権威が感じられました。

ところが、今はどうでしょう。

技術革新が進み、いろいろな商品の価格が下がり、最先端の機器が家庭でも簡単に手に入るようになりました。むしろ、個人(家)の方が学校より一歩も二歩も先に行っていて、パソコンやビデオ、デジタルカメラなど、「学校で使う機器よりも、家にある方が新しくて高機能だ」という現象が、一部の学校を除いて、むしろ当たり前になってきています。

加えて、校舎などのハード面・・・洗面所やトイレ、建物の照明・空調など、地域や公私の別などで大きく違いますが、学校以外のところの方が「きれい」で「快適」な空間だという部分はたくさんあります。

さらには、こういったハードに限らず、ソフト面というか、物事の考え方や体制みたいなものまでが、世間から見れば「学校は遅れている」と言わんばかりの論調が賑やかで、何かにつけ、そういった「社会とのズレ」が世間に語られ、印象づけられているようにも思います。

もちろん、崇高な教育理念の下、いくら校舎がボロボロで、設備や環境が整っていなくても、立派な教育はできると思います。しかし、それは極めて限定的な条件の学校であって、ここまで物質的な豊かさや便利さを味わってしまった今、その学校の存在価値がきちんと認知されていなければ、なかなかそういう意識には至りません。

貧しい生活の中、苦学して云々・・・という時代を否定してはいません。教育には、そういった「精神的な部分」が絶対に必要だとは思います。

しかし、もっと教育に「ココロ(heart)」と「モノ(hard)」をかけて、学校というところが良い意味で「羨望の対象」となるような、《最先端》の環境をつくっていく責任が、我々にはあると思っています。

決して、「楽(らく)」をするとか、「手を抜く」とか、そういった意味の《最先端》ではありません。学び手のココロに訴えかけるような、感性を呼び起こさせるような、さらに知識を吸収して、自分を高めたくなるような・・・そんな誘いを与えてくれるような《最先端》の学びのシステムや空間デザインが、学校には必要です。

もちろん、それにはお金が要ります。でも、お金をかけて整備すればいいと言うことではありません。

お金=モノ以上に大切な「想い」が、そこには絶対に必要です。

幸い、人の縁を活かし、知恵を絞り、自ら一歩を歩み出せば手に届く《最先端》が、いろいろなところに芽吹きはじめました。そのおかげで、お金ありきの議論から、少し違った視点で物事が見えるようになりました。そして、それが実を結び、今年度、いくつかの新しい学びの場を創り出すことができました。

ありがたいことだと、感謝しています。

また、一方で学校が《最先端》であることは、学びが「人が生きることと一体化している」ことを意味します。

学校で学ぶことが、単なる入試を突破するためだけといった、狭くて特殊なものに終始するならば、そこに意欲や価値を見出すのは極めて困難です。かつての高度経済成長期ならいざ知らず、リアルな生活感に根ざした、生きることに連動した「ホンモノの学び」でないと、もはや通用しません。

それを一番よく知っているのは、学びの主人公である子どもたちです。

今こそ、学校の門を広く開け放ち、社会や日々の暮らしに溶け込んだ、たくましく生きるための「知恵と力と勇気」を育んでいける場を、単なる教科書や受験という狭い範疇で縛ることなく、もっと夢のあるワクワク感を語りながら創っていきたいと考えています。

困難は乗り越えるためにあるってことを、身をもって具現化せよ!

学校というところは、予期せぬ対応や急な仕事が次々と入ってくることが多く、先生たちは時間のやりくりに苦労するのが日課だ。

まあ、相手が生きた人間であるがゆえに、予定通り物事が進むような現場ではない。

プリントづくりをしようとパソコンに向かった途端、やれ「鼻血が出た」と職員室に飛び込んでくる生徒がいたり、「あのぉ~」と(たいていどうでもいいことなんだけど)駆け込んでくる生徒がいたり・・・。

そのたびに仕事が中断され、どんどん後回しになっていく。

そうこうしているうちに空き時間が終わり、やおら授業が続くと、あっという間に一日が終わってしまい、「これもできなかった」「あれも残っている」と、放課後、それらを処理するハメになる。

一日の流れがこんな状態だから、一週間、一か月スパンで考えたら、それこそ予定があってないようなもの、・・・というより「予定が立たない」。

だから「行き当たりばったり」「テキトーに」というわけにはいかなくて、何が起こっても「幅広いココロで柔軟に対応できる」「しなやかな臨機応変さ」が必要になってくる。

教師たる者、予期せぬ出来事に出会ったとき、どんな対処をするか・・・すべてはそれで決まるといってもよい。

だから、いつも真剣勝負!

そんなの予定にないからと、「できない理由」を並べ立てて我が身に振りかからぬようにするか、「これも何かの縁」だと引き受け、やることで得られるものを探すか、その差は大きい。

「できない理由」を探し、自分を正当化しようとするようでは、指導者とはいえない。

困難は、乗り越えるためにあるってことを、身をもって具現化せよ!

強い危機感を持ち、学校を変えていかなければならないと思っています。

教育改革なんていうコトバがあちこちで見聞きされるようになって、それなりの時間が経過しています。にもかかわらず、トピック的な事例はあるにせよ、大きな体制的変革として具体的な動きは見えてきません。

それに異を唱えるかのように、このところ、学校など「教育」を取り巻く状況が、関係者だけでなく一般市民の声として、急速かつ大きく変化してきていることを強く感じます。

私自身、企業や行政、地域、NPOなど、さまざまな団体の方々とお話しさせていただく機会がけっこうあります、また、大学生はじめ、つい最近まで初等中等教育を受ける立場だった若者との意見交換も、日常的にさせていただいています。

そんな中で、そういった「教育」を取り巻く危機的状況を叫ぶ声が、顕在化してきました。

どう考えても、このままでは無理・・・。

構造的、システム的に限界を超え、その機能を十分に発揮できるどころか、むしろ阻害するような状況に陥っている・・・。

そんな違和感が大きな危機感となって、警告を発しています。

ところが、まだまだ現状維持を最優先に、旧態然としたカタチが続くと思っている関係者が多いのも事実です。気づいているのか、いないのか、そんなことはどこ吹く風・・・。現状から学び、自分を変えようという意識がほとんど見受けられません。

文部科学省はじめ国を挙げて、高度経済成長期にスタンダードであった「教育」は、ハード、ソフトともに大胆に見直し、改善していかなければならない、と言っているにも関わらず・・・です。

ITを筆頭とした教育環境の大きな進化で、今まで人間が行っていた業務をコンピュータが肩代わりする場面が日常化し、その広がりが仕事の概念を大きく変えつつある今、子どもたちを育てる立場にある教師が、そんな「現状維持」状態で職務を全うできるわけがありません。

新しい環境に身を置き、貪欲に学び、人間としての資質を高め、自己革新を図れないのであれば、もはや「退場」を余儀なくされても仕方がない・・・。

だって、従来のままでは、子どもたちに必要なチカラを育てきれないから・・・。

そういった意識をどこまで自分事として考えられるかが、大きな分かれ道です。

幸い、本校にはそれに気づいている仲間がたくさんいます。

2020年、2030年・・・。節目となる時期まで、どれだけ時間的余裕があるでしょう。強い危機感を持ち、学校を変えていかなければならないと思っています。